20代で死ぬOLの哲学

20代で死ぬことにした普通のOLが時に明るく時に陰湿に日々の記録やひん曲がった哲学を残します。2019〜

変わらないもの

 

年が明けるたび

 

季節が巡るたび

 

日が暮れるたび

 

秒針が刻まれるたび

 

鼓動が脈打つたび

 

進めば進むほど、

なりたくなかったモノに近づいている

 

そんな感覚

 

 

自分自身、見た目もそうであり

心もそうであり

自分だけにとどまらず

周囲の、大切な人たちもそう

 

 

変わっていく

 

 

変わらないでいて欲しいと願っても

残酷なまでに

 

 

今から1ミリも変わってほしくないのに

 

そんなこと叶わないのに

 

 

これ以上の変化を阻止するには

やっぱり時を止めるしか

方法はない

 

 

願いを叶えるための

最良の手段なんだなぁと

 

 

あと165日。

 

約束はそこにはない

 

 

2024年10月

 

彗星が地球に近づく。

 

 

けれど

その前に消滅してしまうかもしれない。

 

 

 

まるで私のようだと思った。

 

 

 

私はきっと

その彗星に出会えない。

 

 

いや

 

 

私はきっと、彗星になる。

 

 

彗星になって、

夜空を走るかもしれないし、

その前に消滅してしまうかもしれない。

 

 

 

2024年の秋の夜空に

にじんでゆく光のグラデーションがあれば

それはきっと私。

 

 

 

消えないでいられたら

見つけてくれるといいな。

 

 

 

 

どうか会えるうちに会いたい人に

 

最後に思いを残した日から随分と長い月日が経った。

 

想い変わらず。

いや、変わった想いもある。

 

家族へのそれ。

 

なんとなく感じていた、遠くない未来に立ちはだかると確信していた、家族の不調。

 

それがまさに去年の7月。

 

その前から家族問題が沸々と湧き上がっていたというのに、そこへ拍車をかけるようにそれはやってきた。

 

 

前はあれほど家族が大切で、母親も姉達も同じくらい大切で、悲しませたくないと思っていた。

 

それが今となっては、姉達と早く縁を切りたいとさえ思っている。できるならもう関わりたくない。

 

親に対しては、今も悲しい思いはさせたくないと考えている。

 

それでも、それよりも、親のことで悲しい思いを自分がしたくないので、本当はいますぐどこか遠くへ行きたいと願っている。

 

 

それが物理的にどこか遠い地なのかもしれないし、世界の向こう側なのかもしれない。

 

 

世界の向こう側への片道切符はあと390日で切ることになっている。

 

ただ、以前会った友人が、とある友人が自殺をした際、それが直近で会った人であればあるほど、悲しい気持ちになると話していた。

 

 

それを聞いて、わたしに余裕があるのなら、そりゃできれば周囲の人間を悲しませたくはないので、世界の向こう側への旅をする1年前から、なるべく人と会うのはやめようと思った。

 

 

そう考えると、あと24日足らずで私は人との関わりを断たねばならない。

 

完全に断つのは難しいにせよ、不用意に会わない。

 

そう考え始めた去年の11月。

そこから会う人は大体、これが最後になっても良いと思いながら会っていた。

心の中でひそかに感謝を告げて別れた。

 

 

だいたいの会いたい人には会えたと思う。

 

 

ひとり、大学時代の友人に会えていない。

会ってしまうと、たぶん、弱さが露呈して泣いてしまうかもしれないし、彼女の幸福さに目が眩んで影を落としてしまうかもしれない。

 

さらにその子は春に2人目を出産する。

 

そんな大変な時期に、どちらの結果になっても迷惑しかかけない。

 

だから、会えない。

連絡もとれなかった。

 

 

彼女からしたら、たぶん感じ悪かったと思う。もうわたしに連絡もよこさなくなった。

 

 

ごめんね、本当は好きなんだ。

でもそれこそ今会ってしまうと、正義感の強い彼女はわたしが世界の向こう側へ旅立ったことについて自分を責めてしまうかもしれない。とにかく悲しい思いをさせるに違いない。

 

 

だからもう、いっそ嫌ってくれていい。

 

 

ありがとう、さようなら。

 

 

 

まだ

生きたい理由はないし、

死なない理由もない。

 

生きたくない理由なら増えた。

 

 

着実に、片道切符の有効性が強くなっている。

 

 

 

 

理由

 

生きてる理由なんてない

だけど死にたくもない

そうして今日をやり過ごしてる

 

 

ほんとうにそのとおり

 

でも

 

生きたい理由なんてないし

死にたい理由もないけど

死ねない理由はなくて

生きたくない理由なら、ある

 

 

それだけで十分、ね

 

 

 

生きたい理由か

死ねない理由か

どちらかがあれば

きっと人生は動き続ける

 

 

どちらが大事かな?

どちらかに出会えるかな?

 

あと90週。

 

呪いの言葉

 

敬愛するバンドが

軽々しく「生きろ」と言ってくる。

 

軽々しく、は語弊か。

力強く、無責任に、が正しい。

 

 

今日、久しい友人に会った。

とても泣いていた。

彼女が幸せであってほしいと願う。

 

私は彼女が好きだ。

彼女も私が好きだ。

それはわかる。

けど、彼女には好きな人がたくさんいる。

 

彼女にとって私は

多くの好きな人の1人。

私の代わりはたくさんいる。

 

そんな彼女から別れ際、

「長生きしてね」と言われた。

 

 

私は答えない。

答えないが、「あなたもね」とだけ伝えた。

 

 

普段の私なら未来の想像なんてしない。

彼女にとって私の代わりはいるのだから

なおさらだ。

 

でも、その時、

弱った彼女の目の前にいたのは私だ。

だから、

「おばあちゃんになっても話そうね」と、

遠い未来で一緒にいようと

めずらしく約束をした。

 

 

彼女と別れ、1人帰路を急ぐ。

 

「長生きしてね」

「おばあちゃんになっても」

 

 

 

 

それはまるで呪いの言葉のように思えた。

 

 

 

 

残された時間が僕らにはあるから

 

2024年2月29日

 

今からそれまでにやってくる季節は

春があと1回

夏があと2回

秋があと2回

冬があと2回

 

 

京都の桜を見たいな

宮古島の綺麗な海を見たいな

新島に行きたいな

心地いい秋の風と芝生で横になりたいな

満点の星空を見たいな

美瑛に行きたいな

 

 

なんてことを思うと

残り少ない季節を無駄にしないで

ひとつずつ、大切に、

経験していきたい。

 

 

大切だと思う人

ひとりひとり名前をあげて

挨拶もしていかなきゃな。

 

時間は足りないから

すこしずつ、たいせつに。

 

 

空の果て、世界の向こう側

 

近しい人との永遠の別れ

私はそれを一度も経験したことがない。

 

そう思うと、大切な人たちは今のところ全員この世界にいることになり、死というものは彼らと住む世界を別にしてしまうことを意味する。

 

だから私は、死が時々怖くなる。

 

逆を言えばこの先、彼らがあちらの世界に行くのならば、私はそれに恐怖を抱かなくなるだろう。

 

心のどこかで、早く誰か…と、

そこまで思って、思考を閉じる。

 

なんて最低な考えだ。

 

心中というのは、こういう考えも少しは含まれている結果の行動なのかもしれない。

 

 

 

最近、家族関係がてんでだめだ。

 

そうなると、世界を渡りたくなる気持ちが一気に加速する。

 

 

私の寿命が訪れたとき、世界の向こう側に私の知る人が誰1人としていない場合、「先に行って待ってるね」という想いを抱くのだろう。

 

 

映画やドラマでよく見かけたその言葉の本当の意味を、ようやく理解することになるのだろう。